約束の凝集 vol.2
Halfway Happy vol. 2 Kosuke Nagata: Eat
2020年11月27日(金)〜 2021年3月5日(金)
[冬季休廊:12/20-1/8]
November 27, 2020(Fri.) - March 5, 2021(Fri.)
[Winter Holidays: Dec. 20 - Jan. 8]
13:00〜20:00 日月祝休 入場無料
13:00-20:00 Closed on Sun., Mon., Holidays.
Entrance Free
ゲストキュレーター:長谷川新(インディペンデントキュレーター)
Guest Curator: Arata Hasegawa (Independent curator)
2021年1月9日より、新型コロナウイルス感染拡大防止対策として、開廊時間を12:00~18:00に変更いたします。
緊急事態宣言の解除とともに通常の開廊時間13:00〜20:00に戻す予定ですが、ご来廊いただく際にはWebページやSNSで最新情報をご確認ください。
協力:ANOMALY 一般財団法人東京アートアクセラレーション
αMプロジェクト2020–2021「約束の凝集」第2回は永田康祐の個展「イート」である。本展は新作の映像作品《Purée》を中心に構成される。
展示タイトルや作品名からうかがえるように、今回の展覧会においては、食べること、そしてまた「口」についての問いが中心に据えられている。ここには、家庭料理をテーマにした前作《Translation Zone》(2019)から続く、永田の一貫した関心を見ることができるだろう。実際、本展では《Translation Zone》のダイジェスト版《Digest (Translation Zone)》が発表され(Digestとは「消化」も意味する)、本展が前作の延長に位置することが示されている*1。
翻訳地帯まで/から
簡単に振り返っておこう*2。永田はこれまで、明晰に現実を「コピー&ペースト」しているように思える事象が、実際にはさまざまな「軋轢」や「混乱」をきたしていることに注目することで作品を制作してきている。特にその最初期においては、メディア装置の不透明性や不安定さを剥き出しにする技術をそのまま作品へと昇華させており、例えば《Postproduction》(2018)では、自動化した編集ツール「スポット修復ブラシツール」が「被写体」と「写真の中の被写体」を区別できないことを利用して画面内の地と図を無効化させている。
Macのデスクトップにあらかじめ表示されている山の写真の来歴をたどり、「デスクトップ背景」を「前景化」させる《Sierra》(2017)や、オーディオガイドを用いて展示空間で鑑賞する対象物の属性やエピソードの「地と図」を揺動させる《Audio Guide》(2018)などからは、永田がそれまでに研究してきた「技術」の身体化を見てとることができる。それはまた、世界において縦横無尽に引かれている境界線が確定しておらず、むしろとても恣意的に、政治的に、暫定的に決定されていることへの自覚を強くする過程でもあっただろう。「地と図」に混乱し不明瞭なイメージを生成してしまうのは、「スポット修復ブラシツール」に限らない。私たち自身もまた常に混乱し、恣意的に決断し、奇妙な描線を引いて世界を切断している。ここにひとつの反省がある。
永田はその「反省」を無限に拡張させず、そこから折り返して制作へと向かう。この世界に引かれた線が恣意的であり不明瞭であると指摘することは、作品の結論では決してない。それはたんに前提である。問われているのは、それでもなお、どのような線を引きたいのかだ。《Translation Zone》において示されるのは、「翻訳」と「家庭料理」が不十分な条件下においても生活を営んでいこうとする人々の前向きな姿勢の結晶だという事実である。永田の作品が興味深い事実の単なる羅列から一線を画しているのは、ひとえにこの前のめりな制作への意志によっている。
新作《Purée》において、永田はタイトル通り「ピュレ」と呼ばれる料理をつくりながら「主体」の範囲を考えようとしている。口は身体の領域を踏み越えて存在しているのではないだろうかという賭け。1ではなく、0.9であったり1.24であったりするような、小数点を必要とする口。そこでは、食べるという行為の履歴をひたすらさかのぼり、排泄から消化、調理、物流、生産と際限なく拡張する倫理や責任に立ちすくむのではない理路が検討されている。
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ここからは「ダイジェスト」ではない形で《Purée》の補助線を培養しておきたい。開かれた口とその敵について。
All eating is force-feeding
モード・エルマン『断食芸人たち:飢えること、書くこと、投獄』には、婦人参政権を求めてハンガーストライキをする女性たちに関する議論のなかで奇妙な一節が登場する。
「私たちにとっての最初の食べるという経験は、強制摂食である。幼児のとき、私たちは他者によって食物を与えられ、彼らが両顎のなかへと捻じこんだ食物によって犯されている。だからこそ、私たちは人生の黎明期に負わされたこの強姦に復讐すべく、食べるのである。強迫観念に駆られて食べる者は、食物によって攻撃されていると感じるわけであるが、彼らは美食家(自らの意志によって食べていると考えている)や禁欲主義者(食物の命令に抵抗できると考えている)よりも、食べるということの真実を理解している。すなわち、あらゆる食事は強制摂食である。」*3
ハンストをする者を「殺さないために」その人の意志に反して食べ物を流しこむ「強制摂食」と、ひとりでは飲食ができない幼児に対して行う食事の補助行為とを安易に同一視するエルマンの主張はあまりに極端であり、実際に強制摂食という暴力を受けている人々の苦しみを軽視している。監獄のなかで彼らはただ死んでいない者として、文字通り単なる「口」として扱われている。だが本展においては、その倫理的問題にもかかわらず、エルマンの主張を簡単に退けることができない。
私の口とあなたの口をズレや違和感を伴いながらも再編していくヒューマンマイクの実践は、ハンガーストライキという、食べることを放棄することで逆説的にも口になろうとするもうひとつの抵抗実践を照らし出し、そしてその影としての強制摂食を浮かび上がらせる。「食べる」という行為が単独の自立した主体のみでは成立せず、「口」は常に再編の可能性に開かれているという永田の主張は、「あらゆる食事は強制摂食である」というエルマンのおぞましきテーゼを同時に召喚してしまう。《Purée》において永田が見出そうとする主体の可能性の全体は、受動的で無力な物質の領野へと絶え間なく引きずり下ろされそうになっているのだ。
汎構築主義
いっぽうで、私たちの口が再構築可能であることが強調されるほど、その主張は現代の資本主義体制下で声高に叫ばれる「イノベーション」や「自己変革」にも接近していく。久保明教は、ブルーノ・ラトゥールの言説を噛み砕いて説明していくなかで、こうした「汎構築主義」的態度の席巻に警鐘を鳴らす。
「汎構築主義は、構築する者としての私たちを世界に外在する主体として位置づけた上で活用される限り、構築の方向性がいかに穏当で素晴らしいものに見えようとも、「いかなる手段を用いても状況を制圧したものが正しい」というマキャベリ主義、あるいは恣意的な決断主義に陥る可能性を免れえない。」*4
もちろん、汎構築主義はまずもって、社会や制度や慣習がずっと変わらず続いていくという諦観や固定観念、自立した主体を前提とした議論を打破するための起爆剤として導入されている。この意義については強調されなくてはならないし、《Purée》もまた、主体の範囲を再考する十分魅力的な契機を提供できていることに疑問の余地はない。
だがここまで記したように、開かれた口には敵がいるのだ。少しでもバランスを崩せば、人間は単なる物へと引きずり下ろされるか、結果が全てであるような荒地へと放逐される。この危うさを無視して《Purée》を肯定することは欺瞞であるし、また、《Purée》を過少評価しているとさえ言いうるだろう。
イート
「食べる」という経験に立ち戻ろう。その都度の、特殊で断片的であるほかない食事に、生の全体、生の一切が詰め込まれるということがある。生きるために食べるのではなく、生きることと今食べていることは一致する。その一口が、生きることを追い抜いてさえしまいうる。
この絶対的な速度をもった自由を感得しているその只中で、全く同時に、どうしようもなく、口はそれまでとは異なる口へとつくり替えられてしまう。食べるという経験において、口は、あまりにも自由であり、あまりに受動的であるほかない。食べるという行為には、中途半端に薄められた自由を徹底させ、積極的に受動的な領野へと投げ出されていくという、いわば「敵」ごと書き換えてしまうような圧倒的体験が埋めこまれている。
《Purée》の魅力は、主体の範囲を再考する糸口であること以上に、食べることそのものへの永田の信頼に見出されるのである。
*1 《Translation Zone》については会期中、下記リンクより鑑賞できる。
*2 過去作については作家のウェブサイトにまとまっている。参照されたい。
http://knagata.org/*3 Maud Ellmann, The Hunger Artists: Starving, Writing, and Imprisonment, Harvard University Press, 1993, pp. 35–36.
*4 久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説 アクターネットワーク論から存在様態探究へ』月曜社、2019年、p. 249
▊永田康祐 ながた・こうすけ▊
1990年愛知県生まれ。社会制度やメディア技術、知覚システムといった人間が物事を認識する基礎となっている要素に着目し、あるものを他のものから区別するプロセスに伴う曖昧さについてあつかった作品を制作している。主な展覧会に『あいちトリエンナーレ2019:情の時代』(愛知県美術館、2019)、『オープンスペース2018:イン・トランジション』(NTTインターコミュニケーションセンター、2018)、『第10回恵比寿映像祭:インヴィジブル』(東京都写真美術館、2018)などがある。また、主なテキストとして「Photoshop以降の写真作品:「写真装置」のソフトウェアについて」(『インスタグラムと現代視覚文化論』所収、2018)など。
(左)《Translation Zone》2019年|4Kヴィデオ|27’22”
(中)《Sierra》2017年|MacOSアプリケーションによる映像|12’00”
(右)《Audio Guide》2019年|音声ガイド|17’22”|撮影:高橋健治|画像提供:Tokyo Arts and Space