髙柳恵里|比較、区別、類似点
髙柳恵里×千葉真智子
定員25名を予定(予約者優先。メールにて「5/14トーク希望」と明記の上、氏名とご連絡先をご連絡ください)
合うのか、合わないのか、試してみる。
比べる。選ぶ。
やってみるとどうなのか、やってみる。
「試し」なので、取り返しがつく。極力リスクは回避する。
と言ったようなことなのだが、さて、何が行われているのだろうか。
何が見えているのだろうか。
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仕組みについて。
この状態とは、どれがどのようになっている、ということなのか。
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ことさらに奥行きを作る。
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買う。使ってみる。
性能の差を感じるのだが、基準があるというわけでもないので、確実なことはない。
性能による結果はまざまざと見えている。
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よく見えるし、よくわかる。
が、わかりやすいのか。
髙柳さんの作品は、態度なのだと思う。
そうしてみること。そうはしないこと。こうであってそうでないのを問い続けてみること。
「ここにおいては何ごとも、知っていることのようにやってはいけない、と思っている。」(個展ステートメント Gallery Jin Projects 2010年)
今回の企画の始まりにあったのは、正しい判断があるとしたら、それはどのようにあり得るのか、ということであった。本来、無数にあるはずの正しさに対して、私たちはどのように距離をとり、しかし、そのなかで、何かしらの判断をするとすれば、その根拠をどこに求めることができるだろうか。
アガンベンが『中味のない人間』のなかで最初に投げかけた問いは、作品の評価(美的判断)が作家の経験から奪われ、鑑賞者の立場からのみ検討されてきたことだった。
そこで改めて、作家による選択や判断という視点を導入してみる。とはいえ、作家による判断が、私たちに何らかの指標を提示してくれるとしたら、それはもはや作家の判断という領分を超えているのではないだろうか?
作家自身がそこに最終的に立ち上がったものに驚く。そこで生じた出来事に驚く。それをしたのは作家であるにもかかわらず。
世界を眺める尺度が一つ生まれる。
1962年神奈川県生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科修了。主な個展に「デモンストレーション」TALION GALLERY(東京、2021)、「それは、正確であるか」See Saw gallery + hibit(愛知、2019)、「性能、他」サイギャラリー(大阪、2019)、switch point(東京、2016)、「油断」上野の森美術館ギャラリー(東京、2014)、「不意打ち」TIME & STYLE MIDTOWN(東京、2013)、「近作展28 髙柳恵里」国立国際美術館(大阪、2003)など。主なグループ展に「MOT コレクション つくる、つかう、つかまえる—いくつかの彫刻から」東京都現代美術館(2013)、「20世紀美術探検—アーティストたちの三つの冒険物語—」国立新美術館(東京、2007)、「心の在り処」(ブダペスト、モスクワ、2003)、「美術館を読み解く—表慶館と現代の美術」東京国立博物館(2001)、「MOTアニュアル1999 ひそやかなラディカリズム」東京都現代美術館(1999)、「VOCA展1999」上野の森美術館(東京、1999)、「やわらかく重く—現代日本美術の場と空間」埼玉県立近代美術館(1995)、ライフギャラリー(アメリカ、1996)巡回、「彫刻の遠心力—この十年の展開」国立国際美術館(大阪、1992)など。