大木裕之|tiger/needle とらさんの墨汁針
大木裕之×千葉真智子
1、
と、イ、って、
なにが、うつされるのでしょうか?
と、まず、問いかけます、
2、
しかし、コミュニティーの内外では、まず、息の根が、必需品で、その時に、なにをどう、うつされるのでしょうか?の問いかけが、
あんがい静かに、静かに、静かに語られました。
3、
つまり、歴史的判断の尺度は、おおっぴらにはできないなかで、が着実に物質と身体の交接の、循環を愛がつつむ形で、ここに、とらさんとシテ。
4.
とらさんとシテ、墨汁とシテえがかれる可能性
が、うつされるときの、ときめきが、針!
「いつっ?」「いつっ?」「いつっ?」
その多くの声のながレが、みずいろの声をキく
時、メキ、と、大きく内容を「ああっ!、ああっ!ああっ?」
5.
やっ、うつし、針うつし、
6、
かんぱい
7、
の記録とシテ
8、
心からようこそ!!!
ゆっくり、と、はや
9、
青戸の事務所をでます、朝9寺
大木
千葉さま、神さま、
社会的、政治的であるとは、どのような態度を指していうのだろうか。そして芸術において社会的、政治的であるとは、どのような造形をして成立し得るというのだろうか。
大木さんの映像作品に映し出されるのは、ごく普通の人たちの——それは10代の一時期という凝縮された特別な時間のなかにある高校生であり、そうした時期も過ぎた大人たちであり、またその目撃者である大木さん自身である——、ごくごく日常の断片というべきものである。しかし、その時々の光や風景を含んだ映像の連なりは、いわゆる「意識の流れ」ともいうべき流動する大きな全体から成っていて、そこには独特の眩しさがある。
高知、東京、岡山と複数の拠点をもち、移動を繰り返しながら制作し、複数の展示やパフォーマンスを行う。その日の出来事やその時々に感受し、想起したことを何十年にもわたり、メモに取り、言葉に留め続ける。こうして記録され、記憶された様々な出来事や想念は、長い年月のなかで醸成され、作品のなかに幽霊のように回帰、出現し、連想の糸を結ぶ。部分である個々の作品に、過去を含む総体が流れ込んでいる。
大文字の「建築」から離れ、「映画」という方法を手にした大木さんは、日常を暮らす人々とそれらを取り囲む場や関係の全体を考えることで、より深く建築的なるものに関わり続けているともいえるだろう。建築とは、そもそも個人と社会の全体を必然的に含むものである。
社会的、政治的であることを標榜することなく始まった制作行為や造形行為が社会や政治に接続する。過去の出来事も、いま自分がとった行動にも何がしかの必然性がある(と考える)。「個人的であるということはすごく社会的」なことである。
創造と社会の結び目。
追記
様々な時間や場所、出来事が往来する大木さんの作品は、会期中の大木さんの経験や想起に応じて形を変えていくことになります。そして12月17日の会期終了後、23日に搬出が完了するまでの行為とそれに応じて変化する会場の有り様もまた、大木さん(の作品)の大事な要素であり、多くの方に経験として立ち会っていただけたらと思います。
1964年東京生まれ。東京大学工学部建築学科在学中の80年代前半より映像制作を始め、89年〜北海道松前町を中心にした映像作品群〈松前君シリーズ〉を開始、96年に『HEAVEN–6–BOX』(1995)が第46回ベルリン国際映画祭NETPAC賞を受賞。その表現活動は映像制作のみに留まらず、ドローイング、インスタレーション、パフォーマンスにまで及ぶ。カメラを手に世界各地を旅し、膨大なイメージを次々に重ねていく独特で詩的な映像表現は国内外から高い評価を受け、国際展にも数多く参加している。主な展覧会に「M+ Moving Image Collection」M+(香港、2021)、「あいちトリエンナーレ:虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅」(2016)、「歴史する! Doing History!」福岡市美術館(2016)、「ライフ=ワーク」広島市現代美術館(2015)、「Out of the Ordinary」ロサンゼルス現代美術館(アメリカ、2007)、「シャルジャ・ビエンナーレ」(アラブ首長国連邦、2007)、「夏への扉―マイクロポップの時代」水戸芸術館(茨城、2007)、「六本木クロッシング」森美術館(東京、2004)、「How Latitudes Become Forms」ウォーカーアートセンター(アメリカ、2003)など。